SPF

 

SPF物語

レジャーから肌老化防止へと進化する紫外線対策

 

 

今回は、商品企画というよりも、「紫外線と美容」の歴史として読んでいただける内容になっています。

 

 

1. SPFと紫外線情報

 

常識をくつがえす新しい概念(SPF;Sun Protection Factorの略)を市場導入したお話です。現在の「美白化粧品」ブームの原点がSPFであるといっても過言ではありません。

 

SPFとは、化粧品の紫外線防御効果のレベルを表す数値です。簡単に言うと高い数 値であればそれだけ紫外線を防ぐ効果が高いことを表します。元々は、アメリカのFDAが進めていたサンスクリーン化粧品の表示規制です。その背景にあった のが、白色人種の皮膚がん予防です。これから述べるように、日本で普及していった背景とは全く違うものでした。

FDA;日本の厚生労働省にあたるアメリカの省庁

 

前任者がとりかった仕事を受け、日本で始めてのSPFの考え方を盛り込んだ化粧品を開発することになったのは、昭和52年(1977年)頃でした。

日本では、全く新しい概念だったので、まずは、「紫外線」の情報整理から始めました。「紫外線」とはどんなもので、人間にどのような影響を与えるのかという 基本的な情報です。今でこそ当たり前になってきた情報ですが、当時はどうすれば分かってもらえるかというところから考えました。その前に、担当者としては 自分が理解する必要があり、半年ほど研究所に通い詰めて勉強しました。その結果としてまとめた内容は、現在も一般的に流されている情報と殆ど変わっていま せん。(でも本当は、かなり進んでいて、細胞DNAレベルまで解明されつつあるようです。)

 

情報価値として最も大きなものは、「紫外線は肌にとって有害以外の何者でもない」と言うことでした。体内でビタミンDの生成に関与しているとは言うものの、その害に比べたら全く意味がないと言われています。数年前、母子手帳からも「日光浴」の項目が削除されたくらいです。

 

次は、ビックリ仰天の情報です。サンオイルは、決して日焼け促進剤ではないということでした。これには皆さん、中々理解できなかったようです。厳密に言うと、弱いながらも紫外線防御効果をもっているのです。すでにSPF 表示の商品が発売されていた欧米では、急激な日焼け(サンバーン)から肌を守りながらゆっくりと日光浴をし、やけどすることなく美しい小麦色の肌を手に入れる認識が広まっていました。今では、日本でもようやく、「紫外線」の害を知ることで、紫外線対策の意味と必要性が理解されるようになりました。(まだ分 かっていない人は沢山いますがね。)

 

そのほか、アラカルト的な情報も様々ありました。季節によって「紫外線」の強さが変わるということ。ポイントは、最も強くなるのが8月の暑い季節ではなくて 夏至(6月下旬)の頃であることです。梅雨の時期で紫外線量は少ないのですが、雨上がりの晴れた日には、特に注意が必要なのです。そして、4、5月頃から 準備する必要があること、等々です。「紫外線」に対する感受性(日焼けし易さ)が、肌の色によって差があることも重要なポイントでした。それまで個人の経 験で焼け易い肌とか、焼けにくい肌と言っていたのを、実験で数値化しました。

 

このように、常識をくつがえす全く新しい概念は、一朝一夕には分かってもらえません。これが、単なる新しい商品を売るための仕掛けだと考えると、苦労ばかり が多い大変な作業になります。目新しいニュースでブームになるかは分かりませんが、すぐに飽きられてしまうのがオチです。しかし、情報をまとめていた私には確信がありました。「紫外線対策」こそが肌の美容にとって最も重要であることを。ブームになっている「美白」だけでなく、究極の肌美容である「肌老化防 止」にも大きく関係しているのです。

 

そのような訳で、この新しい概念を市場導入するにあたっては、段階的な情報戦略、商品戦略を組むことにしました。初めに「紫外線」情報の普及を意図した教育と広報活動。次年度にSPFを表示した商品の導入です。今も資生堂では、ほぼ毎年のように、「紫外線セミナー」を全国各地で開催しています。

 

数年前に、会社の倉庫の奥深くから「古文書(?)」が発見されました。当時、私がまとめた「紫外線情報マニュアル」の原本です。ワープロがない当時、自筆で書かれたものです。下手な字が踊っていますが、何とも懐かしく、今も大切にもっています。

 

2. 日本版SPFづくり

 

研究所のUVチームと一緒に資生堂オリジナルのSPFづくりを始めました。欧米では公的な機関の主導でルールが作られていましたが、日本では全くルールがなく、日本人の肌で測定されたSPF値の肌適合ができていませんでした。

 

先ずは、肌(色)と日焼けのし易さや日焼け具合などを自分で判断してもらうアンケート調査をしました。これだけでも、肌色と日焼けの相関関係がはっきりと分 かりました。次に、どの位の紫外線を浴びるとどのように日焼けするのかを肌別に調べる必要がありました。この数値が日本人の日焼けし易さ(紫外線感受性)の基本になります。

 

実験の準備が始まりました。社内でアンケートをとった人の中から実験に参加してもらえる人を集めることにしました。沖縄の海で実験することを餌(?)に、十分な人数を集めることができました。人事部からは、遊びに行ってテスト謝礼までもらうのは問題だとしての指摘を受けました。そこで、その担当者にも実験を体験してもらうことにしたら納得し、人事規定の見直がされました。

 

沖縄に決めた本当(第一)の理由は、十分な紫外線量があることと、梅雨明けが早くて早目の夏に一回目の実験ができることでした。二回目は静岡の海岸でした。実験は過酷です。海岸の砂浜に6 時間位、うつ伏せになったままで動いてはいけないのです。充分な紫外線量が必要なため、紫外線が最も強い朝の9時頃から始めました。実験する部分は、背中です。碁盤の目のように切り抜かれたTシャツを着ています。その他の部分は、紫外線が当たらないように帽子と長ズボン。もちろん、周りにサポート係りがいて、頭や体に水をかけてやったり、喉が渇いたら飲み物を運んだりします。昼食も、うつ伏せのままです。

 

いくつものサンプル品を背中に塗って6 時間。時間の経過に合わせて碁盤の目に封をしていくことで、その人の紫外線感受性を測定するのです。すなわち、どの位の紫外線を浴びると赤くなる(サン バーンする)のかを調べるのです。色白の人ほど、少ない紫外線量(短い時間)で赤くなります。ちなみに色白の人で20分、色黒の人で30分でした。とは 言っても、日本で最も紫外線が強い場所、それも一年で最も紫外線が強い時期での値です。加えて、うつ伏せですから、ほぼ直角に浴びるので最も強く当たる訳 です。季節や場所、立っていて当たり方が斜めであれば、浴びる紫外線量は少なくなるので、実際の生活場面ではもう少し時間が長くても大丈夫。

 

こんな実験を部外者が見ていたら何と言うでしょう?なるべく人がいない場所、時期を選んでいますが、通りかかって見ている人もいます。遠巻きにして見ながら、不思議そうに言った言葉は、「我慢大会ですか?」でした。しばらくして、テレビのクイズ番組にも出たことがあります。

 

私も2 回程この実験の被験者になったことがあります。結構大変でした。背中の碁盤の目はイレズミのようになり、人にもよりますが、1年近くは消えません。ゴルフ場のお風呂では気を遣いました。殆どは男性が実験台となりましたが、勇気ある女性を募って少ないながらも女性データを取ることができました。

 

この結果を踏まえてSPFをあてはめると、次のようになります。20分で赤くなる人がSPF10のサンスクリーンを塗ると、20分の10倍で200分までだったらOKということになります。7月の沖縄程ではない普段の生活場面では、ずっと長い時間OKです。

 

このような基礎データをまとめながら、商品づくりを進めていきました。もう、日焼け(促進)用とか、日焼け止め用の区分けて別々な商品を作る時代ではないと宣言し、同じシリーズの中にSPF値の段階を設けて4品を発売することにしたのです。SPF値が最も低い商品は日焼け用にと配置しました。次に高い商品は、時間をかけてきれいな小麦色の肌にするため用であり、普段の生活場面での日焼け止め用でもあります。

沖縄の青い空のもと、青く美しい海を前にしての我慢大会でした。

 

商品企画の担当者は、このような実験計画を研究者と一緒になって推進したり、推進のためのチーム作りのコーディネーションなども仕事になっています。自分の企画は、自分が動かなければ、誰もやってはくれません。

 

 

3.サンケア化粧品の進化

 

前田美波里のポスターで有名な「太陽に愛されよう」(1966年)が一世を風靡した時期、太陽のマークがデザインされた黄色い「サンオイル」のボトルは、日本中の海水浴場を埋め尽くしていました。日焼け用のオイルの全盛期です。SPF以前のお話で、今の若い人には創造できない光景です。

 

それが今、日焼け用化粧品は、ほとんど見なくなりました。日焼けサロンで肌をこんがり焼く人もいますが、圧倒的に少数派になっています。SPFに端を発した紫外線に対する情報が、いかに広まったかが分かります。

 

日焼け止め化粧品が日本で始めて発売されたのは、1954 年(資生堂サンスクリーン)。そして、SPF表示をつけた商品の第1弾が、1980年に登場しました。いきなり「SPF」と言っても分からないので、「サ ンケア指数」という言葉を考えました。「サンケア」という言葉が他社の商標に抵触していたのですが、使用許諾を得て、表示することができました。  

 

日焼け用としてのサンケア指数2から日焼け止め用のサンケア指数15まで、合計4品配置でした。当時は、サンケア指数15ともなると、まるでスティック状のファンデーションのように厚塗りになってしまいます。加えて、紫外線防止剤の粉末(二酸化チタン)で、肌は真っ白。

 

サンケア化粧品の進化は、まず、この白さからの脱却です。SPF が高くなっても白くならないようにと、粉末の開発、配合・製造技術の開発が続きました。微粒子にしたり、形状に工夫を凝らしたり、他の素材とのハイブリッ トなど、ミクロ、ナノレベルの開発を進めてきた結果、今ではほとんど白浮きしなくなっています。それも、SPF50以上の効果があるのです。

 

1992年、SPF値の測定基準が工業会で制定されることになりました。この年、「アネッサ」というサンケアブランドが登場します。価格も3,000円クラスとビックリするくらいの高価格の高品質・高機能サンケア化粧品です。SPFは、まだ28でした。

 

その後、SPFは一人歩きを始めました。各社共、競争が激しくなり、実態がないまま、数値だけの上昇もみられ、120以上を表示する商品も現れる始末です。業界として、過当競争を防ぐ意味からも、 2000年には上限値を設けることになりました。SPF50以上は、「SPF50+」という表示です。

 

1992年、「PA」という表示が加わりました。SPFがUV-B(中波長紫外線)によるサンバーン(炎症)から肌を守る効果を表したのとは別に、UV-A(長波長紫外線)によるタニング(黒化)から肌を守る効果を表します。

そもそもSPFは、欧米で紫外線による皮膚がん対策で作られたもの。それに対してPAは、日本人の日焼け意識(美白意識)に対応したものと言っても良いでしょう。もちろん、SPFも美白には大いに関係があります。

 

4. 美白ブームのルーツ

 

紫外線に対する関心の高まりが美白意識へ。第2次美白ブームの発端はSPFから始まりました。

 

昨今の日焼けに対する意識は、随分と変わってきました。SPF 以前(1975~ 1980年頃)の調査では、夏になったら顔も体も日焼けしたいという意識があり、夏が終わったら白い肌に戻すための美白ケアを始めていました。化粧品各社 は、美白キャンペーンを8月からスタートしていたのです。

 

その後、紫外線に対する認識が浸透するにつれ、顔だけは焼かないとか、顔も体も焼きたくないという意識が多くなり、紫外線が強くなる4,5月頃から美白ケアをするようになりました。今、美白化粧品の新製品が3月頃に発売されるのはそのためです。

 

1985年に紫外線と美白を結びつけた新しいブランドが導入されました。「ユー ヴィーホワイト(UV WHITE)」です。「紫外線(UV)から肌を守って美しい白い肌に保つ」という意味です。それ以前は、「日焼けして増えた(黒くなった)メラニンに作用 し、白い肌に戻す」ことを基本にした化粧品が主流でした。

 

資生堂で最初の美白化粧品は、「過酸化水素キューカンバー」(1917年発売)で、酸化漂白でメラニンを白くするという化粧品でした。その後、ビタミンCによる美白時代がやってきます。ビタミンCも紫外線と肌の研究にあわせて進化し、安定して高い機能を発揮する新しいビタミンCが開発されてきました。

 

「ユーヴィーホワイト」による美白ブームを受け、「ホワイテス」という美白美容液が1990年に発売されました。1本1万円という大変に高価な化粧品でしたが、年間200万本を超える大ヒットが続き、今日の美白ブームを決定付けたと言えます。

 

よく「UVが入っている化粧品(日傘や衣料品も)」などと言われます。(UVとはUltraviolet Raysの略で紫外線の意味。よく知っている人から見ると、おかしいですね。紫外線が入っていたらどうなるのでしょうか? もちろん、お客様の言うのは、 「UV防止効果がある化粧品」のつもりです。テレビや雑誌でも同じことを見聞きします。それほど、UV(紫外線)に対する認識が広まったと言えるのではな いでしょうか。

 

 

  5. 新市場を生み出したSPF

 

新商品と言っても、それまでの定番商品の機能・使用性が高まった進化改良型で、置き換えて使う場合が殆どです。その中で、新たなカテゴリーを定着させ、1品を新たに加えてもらうことは並大抵のことではできません。

 

また、ニッチ発想で新たなカテゴリーを創造してそこに新奇性がある商品を投入しても、殆どが一過性で終わります。その理由は、ユーザーの「習慣性」にあります。面倒なので、ただでも減らしたい使用品種なのに余程の意味がなくては増えることはありません。モノめずらしさで使うことはあっても、ユーザー自身の習 慣的行動にはまらないものや、常識化して広く一般的に認知されていない行動・動作は定着しないのです。「やせる」をうたった商品がブームになるものの、い つも一過性で終わるのはそのためです。面倒なのと、他にも要因があるので効果実感が薄いからです。  

 

売上が上乗せになる新市場を形成するためには、次の2つの要件が必要です。

ひ とつは、はっきりと分かる効果があること。しかし、化粧品でそこまで求めることは中々できないと思います。医薬品との差別化からか薬事法でもそのように定義されています。(とは言え、今や皮膚科学は大きく進み、それに対する化粧品研究も進化しているので、もう古い定義になりそうです。)

 

もうひとつは、新しい常識を発見することです。本当に重要なことでも、知識がなければ、何をして良いか分かりません。それがまさに紫外線であり、その紫外線に対する知識だったのです。SPFに端を発した紫外線対策ケアが浸透することで、まったく新しい市場が生まれたのです。本当は以前からそこにあったのですが、誰にも見えなかっただけなのです。

 

はじめは、夏のレジャーシーンで使われていたサンケア化粧品は、徐々に日常生活シーンに広がり、年間使用の商品になりました。それに伴い、商品に求められる価値も大きく変化してきました。そして今、紫外線と肌の関係やSPFの考え方は、スキンケア化粧品やメーキャップ化粧品の領域にまで浸透しています。最近は、ヘア用のサンケア化粧品が新しい知見をベースに発売されています。新しい市場が生まれているのです。

 

スキンケア化粧品では、日中用美容液の登場があります。これは、単なる日焼けの問題からスキンケア=肌のお手入れの領域に入った象徴的な出来事です。これは スキンケア美容法から見ても画期的でした。それまでのスキンケアは、「肌を清潔にする」「肌にうるおいを与える」「肌の機能を高める」といった機能分類の 中で開発・配置されていました。そこに、「(紫外線から)肌を守る」という概念が導入されたのです。メーカーとしても新しいカテゴリーの開拓になったわけ で、各社共に多くの商品が投入されるようになったのです。ひとつ余分に使ってもらうことは、市場規模が伸び悩む中で非常に大きな意味がありました。

 

結果として、日焼け用・日焼け止め用からスキンケア用に発展しました。商品としても、トイレタリー雑貨的なレジャー商品からスキンケアのお化粧品へと格上げ (?)になり、その付加価値と共に価格帯も上がってきました。レジャー用のままだったら、単なる機能進化商品として置き換えられていただけだったと思いま す。

 

メーキャップ化粧品で言うと、ファンデーションの基本機能にまでになったのです。口紅やアイシャドーにまで紫外線防止を謳う商品が出てきました。

 

髪の毛用にも、紫外線と髪の毛の関係が解明されたことで新しい商品が生まれました。(これは、前記の2つのポイントから考えてそれほど浸透はしないかもしれませんが。)

 

 

6.「紫外線」は宝の山

 

商 品企画の目的は、新しい価値の創造です。都度、新しい価値を生み出すこともありますが、生まれたひとつの価値が進化し、また新しい価値を生み出していく場 合もあります。そこまでのパワーをもった価値には、滅多にお目にかかることができません。しかし、「紫外線」が秘めている価値はとてつもなく大きなパワー があるのです。美容、特に皮膚との関係においては、加齢による影響以上と言っても良いパワーがあり、もっともっと新しい価値を見せてくれるように思えま す。

 

そ の価値を引き出すのが、企画者の仕事です。サンケア化粧品は、単なるレジャー用のサンタン・サンスクリーン商品から、美白意識に応える化粧品にまで発展し ました。その価値も、その価格の変化で分かるように、大きなものになりました。ユーザーが認めた価値であり、価格に表れています。

 

では、これから紫外線との関係はどのようになっていくのでしょうか?いや、どのようにしたら良いのでしょうか? この課題を解決するには、3つのポイントが必要になります。

 

まずはサイエンスに基づく価値がベースにあることから、紫外線と肌(皮膚生理)の関係を更に研究して解明していくこと。次にユーザー側の美容意識の掘り起こ しによるユーザーも気が付かない新しいベネフィットの提案。そして、それに応える製品(処方・製造技術)の開発です。もしかしたら、化粧品の概念を超えるものが必要になるかもしれません。

 

少なくても今、分かっていることは「肌老化」がキーになるということです。ある意味、美容(化粧品)にとっては究極のベネフィットとも言えます。これまで、 「光老化」として発信されていますが、(意外に)浸透していないのかも知れません。これからどのように料理(企画)するかが、企画者の仕事です。もしかし たら、もう「SPF」発想ではないかもしれません。